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■019号・回青橙(だいだい)と七福神(かつぎや)
2006/1/11

 

 

今日は正月の11日です。鏡開きの餅で作った汁粉がございます。よろしければ酒肴の終わりにいかがでしょうか。

汁粉か。以前から思っていたのだが、あれは食べるのか飲むのか、どっちだい。

啜る...

回青橙(ダイダイ)

鏡餅が汁粉になって出てくるのは結構だが、上に乗っかていた橙(ダイダイ)はどうなった?

はい、ポン酢醤油になりました。手前どもはポン酢には、主に橙を使っております。正月のそれは縁起物ですから、有難く利用しています。

 

回青橙(ダイダイ)

 落語の『七福神(かつぎや)』にも正月に井戸神様へ橙を供える場面がございますが、今日はその芽出たい橙の話です。

 

■「回青橙」は橙の別名。「カイセイトウ」とも「ダイダイ」とも読みます。最初に青い(緑色ですが)実がつき、秋から色づきやがて橙色になります。その実は落下しにくく、翌年の初夏から再び青い実となって樹上に残ります。「回青橙」の所以です。

 

 新旧「代々(だいだい)」の果実が同じ木にあると言うのが「ダイダイ」の名の由来だそうです。
 江戸時代の国学者、谷川士清(たにがわことすが 1709-1776)の『和訓栞』(わくんのしおり1776年成)には、こう記されています。

   
   「だいだい、橙をいふ、蔕(ヘタ)に台ふたつ有るをもて名づくといへども、その実あからみて後も落ちず、来年実る時まで青し、
   よって回青橙の名あり、四五年も落ちざるあり、されば代々といへる義なるべし」
  

■ダイダイの原産地は、インド、ヒマラヤあたりですが、今や世界中にあるようです。日本には中国から渡来したのですが、田道間守(たじまもり)が持ち帰ったと言う説があります。

 日本書紀(720年編纂)にある、田道間守の伝説をご存知でしょうか。昔の文部省唱歌にもあったそうです。(昭和17年刊の「初等科音楽(1)」国民学校初等科第三学年用に収録)

 ざっとこんな話でした。

 病床にある 11代垂仁天皇(西暦61年頃)の勅命により田道間守は南方の常世国(中国大陸のどこかでしょう)へと旅立ちます。 その国には延命長寿の果物、「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」があり、苦節10年の後、その香菓「(タチバナ)」を探し当て帰国します。 されど、時すでに遅し、天皇は崩御されていた、と言うお話。

 

↑↑↑↑紙芝居「天日槍/出石乙女/田道間守」・YouTube↑↑↑↑

 

 柑橘の研究家・田中長三郎博士(1885-1976)はこの香菓「橘」こそが橙(ダイダイ)であるといいます。*田中長三郎: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より 

 

 
 田道間守は、和歌山県海草郡下津町橘本の橘本神社内に祀られています。「万葉集」には橙(ダイダイ)は阿部橙(アベタチバナ)と言う名で登場します。

 吾妹子に逢はず久しもうましもの 阿部橙のこけむすまでに」(詠人知らず)

        

ダイダイ 片々
ダイダイをそのまま食べるには、酸味が強過ぎます。英名はbitter orange(ビターオレンジ)とかsour orange(サワーオレンジ)。マーマレードの原材料として使われています。ハーブティーに「オレンジブロッサム」がありますがこれは花から作られます。 カクテルや菓子に使うリキュール「オレンジ・キュラソー」の原材料にもなっています。生薬の「橙皮(とうひ)」は果皮、「枳実(きじつ)」は未熟果実から作ります。生薬に「陳皮(ちんぴ)」もありますが、これはダイダイより温州ミカンなどの果皮から作られることが多いようです。近ごろはアロマオイルや美容系のオイルなどの原材料としても使われ、製品はネットなどで売れているようです。

 

『味と映画の歳時記』
池波正太郎

子供のころ、橙の果汁に砂糖を加えたお湯割りを飲んだことをおぼえています。 池波正太郎は『味と映画の歳時記』(1982・新潮社)の中で、子供の頃飲んだ、この橙の暖かい飲みものを語っています。 

 

   その、あざやかなオレンジ色の橙を見ると、私の胸は、またさわぎはじめる。新しい年が明け、正月十一日に御供えの餅をこわし、汁粉にするとき、祖母が橙の汁を茶わんに搾り、たっぷりと砂糖を加え、熱湯をさして、
   「さあ、風邪を引かないようにおあがり」
   と、私にくれる。これが、正月の何よりのたのしみだった。オレンジでもない。蜜柑でもない。橙の汁の風味はもっと濃厚で、酸味が強く、香りもすばらしい。
 
          ーーー中略ーーー
その暖かさ、そのうまさは何ともいえぬ幸福感をともなっていた。 
   
 

 
 そして、文末では、ちかごろの橙の味は、むかしのそれと、すっかりちがってしまった、と嘆いていらっしゃいます・・。

ポン酢醤油と橙

ポン酢に醤油を合わせたものがポン酢醤油です。 ポン酢の語源はオランダ語で、柑橘類の搾り汁をポンス(pons)というそうです。

もっと遡れば、橙の原産地であるインドのサンスクリット語にパンチャとかパーンチとかいう語があるそうな。これは「5つ」という意味もありまして、5種類の材料で作られた飲み物(柑橘果汁・砂糖・水・スパイス・酒)も同様に呼んでいたのですって。

それが17世紀にヨーロッパに渡り、英語ではパンチ(punch)、オランダ語ではポンス(pons)になったと。

 

さて、日本では江戸時代。オランダ人が伝えた飲み物ポンスが、長崎の卓袱料理(しっぽくりょうり)の食前酒として飲まれていたようです。なぜか飲み物としては定着せず、柑橘類の果汁のみをポンスと呼ぶようになり、やがて酢の字をあて調味料としてのポン酢となってまいりました。

 

ポン酢は、ちり酢ともいいます。ちり鍋を食うときに使うからです。 近頃はポン酢醤油のことも単にポン酢と呼ぶことも多いようです。さっぱり感が受けるのか、醤油の代わりやドレッシングとしても多用されています。

自家製のポン酢醤油・作り方

自家製のポン酢醤油を試してみてはいかがでしょう。橙がお手に入らなければ他の柑橘類(スダチやカボスなど)でも構いません。ブレンドというのも一興です。

手前どものポン酢醤油の割合は以下のとおりです。
橙(柑橘類)の搾り汁12:醤油8:たまり醤油1:味醂3:酒1:酢1
 酒と味醂は煮切っておきます。昆布と鰹削り節をいれひと煮たち、その後1、2週間寝かせます。漉してからお使いください。

 

”ぶりしゃぶ” に自家製ポン酢で

魚貝の刺身や唐揚げに。たたきや洗い。ちり鍋やちり蒸しにはもちろん。塩焼き魚にちょいとつけて。サラダのドレッシングにも。この時期でしたら、「鰤(ブリ)しゃぶ」 なんかいいですね。青葱の小口切りと もみじおろしを添えて。 酸味がきついようでしたら出汁で割ってお使いください。私どもはそれを「割りポン」と言っています。

 

 

落語「七福神(かつぎや)」

落語の「七福神(かつぎや)」には、橙(ダイダイ)を井戸に落とす場面が出てきます 。若水(わかみず)という神事に基づいた風習でしょう。

「若水」は元日の朝に初に汲む井戸水で、神棚に供えます。本来は、宮中における立春の行事であったようです。神棚に供えた後の若水で口をすすぎ、身を清め、煮炊きにも使います。この習わしを「若水汲み」(または若水迎え)といいます。

 

ある年の元日、呉服屋の五兵衛は、下男に井戸で若水を汲んでくるよう命じた。

《あらたまの 年立ち返る 朝(あした)より 若やぎ水を 汲み初めにけり》

と歌を詠じ、《これはわざっと お年玉》とまじないを唱えて井戸の神にをそなえてから若水を汲むように教えた。

落語に登場するのは例によってちょいと足りない粗忽な下男ですから、そんな歌やまじないを正確に言えようはずはありません。なんといったかといいますと、

《目の玉のでんぐりげえる明日(あした)には 末期の水を 汲みそめにけり、これはわざとお入魂(ひとだま)》

とんでもない縁起の悪い歌となってえらく叱咤されます。

 

以上で橙の出番は終わりです。呉服屋の五兵衛は大変な縁起かつぎで、それを揶揄うはなしがこのあと続きます。

 

サゲの部分をご紹介しておきます。

呉服屋の五兵衛が縁起かつぎであることを聞き及んだ宝船売り、五兵衛に縁起の良い世辞を言って、宝船を全部買ってもらい、あげくは、ご祝儀や反物までもらう。

気をよくした宝船売り、帰りがけのヨイショは、
「旦那のお姿は大黒様、美しいお嬢様は弁天様。七福神がお揃いで、おめでとうございます」

 五兵衛が言う。「それじゃぁ、二福じゃないか」
 宝船売り 答えて、
「いいえ、それでよろしいのです。ご商売が、呉服(五福)でございます

 

■落語の「七福神(かつぎや)」は、「正月丁稚」とか「かつぎや五兵衛」などという別題もあります。 四代目 三遊亭円遊の「七福神(かつぎや)」が、よく知られています。

汁粉 しるこ

さぁ、お待ちかね。いよいよお汁粉の登場です。
どなたもお待ちではなかったようですが始めます。今回も長くなりそうです。汁粉啜りながらお付き合いください。

 

汁粉は「飲む」ものか「食べる」ものなのかどちらでしょう。

「飲む」、「食べる」でいえば、西洋料理のスープは「飲む」(仏: boire 英:drink)のではなく「食べる」(仏: manger 英:eat)と決まっていますね。フランス語でも英語でも動詞は「食べる」を使います。その理由はいまや多くの方がご存知ですが、成り行き上触れておきますね。

 

スープ(仏:soupe、英:soupe)という語はもともとブイヨン(仏: Bouillon 英:Broth)に浸して食べるパンのことを指していたそうです。スープの語源であるラテン語のスッパーレ(suppare)は「浸す」という意味だとか。

軽い夕食という意味のサパーsupper(仏: souper 英:supper)も同語源ということです。フランス古語に”soper ”という語があり「スープを飲むこと,夕食をとること」の意味だそうです。というか、中世フランスでの民の夕食は(パンを浸した)スープだったのでしょう。推測ですが。
今でもスープやポタージュにクルトンを浮かべ入れることがよくあります。味や見てくれもさることながら、昔スープの中にパン入れたことの名残りということもあるようです。

 


スープは「食べる」と申しましたが、近ごろのカップに入ったスープなどは「飲む」とフランスでもアメリカでも表現するようです。容器を手で持って飲む場合かなとも思います。スープ皿に盛られていて、スプーンなどのカトラリーを使う場合はやはり「食べる」でしょう。

そのほかに"sip"(啜る、少しずつ飲む)もけっこう見かけます。これも本格的なスープではなくカップに入ったスープや即席のものに使われているように思います。"slurp"(音を立てて食べる、啜る)はダメでしょうね。lol

 

SoupStockTokyo
ホームページより

 

日本の駅ナカやデパ地下で見かける「Soup Stock Tokyo」というスープ専門のチェーン店は「食べるスープの専門店」がうたい文句です。

 

 

 

 

brodoのwebサイトより
https://www.brodo.com/

 

コーヒーカップで飲むスープ、"ブロス"をニューヨークで展開しているスープ屋さん"brodo"のサイトを見ていたら、
drinkでもeatでもない"swallow"という語がありました。(M.D.の推薦宣伝文中)飲み込む』でしょうか。"easy to swallow"は薬やサプリメントなど飲みやすいという意味でよく出くわします。

 

 

 

《朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
 と幽かすかな叫び声をお挙げになった。》

太宰治の『斜陽』の冒頭です。ス-プを「吸う」と表現しています。これは元華族夫人である「お母さま」がスープを召し上がるさまの描写ですが、次にひらりと「流し込み」、「滑り込ませ」ます。

《またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、》
《またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。》

飲むとか食べるなどとは表現していません。ただし、「飲物」と書いています。

《また、事実、お飲物は、口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいにおいしいものだ。》

どのようなス-プかといいますとポタージュみたいに作ったものです。

《けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった罐詰のグリンピイスを裏ごしして、私がポタージュみたいに作ったもので、》

斜陽 太宰治「斜陽」1947年 青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1565_8559.html

どちらでもeat?

Miso soup(味噌汁)は"drink"でいいようです。箸は使いますが器を手に持って飲みますからね。

念のため検索したら"How to properly eat miso soup" というYouTubeがあって、タイトルには"eat"を使っていました。でも動画の00:43秒あたりでeat(ing)もdrinkも両方使っていますね。

"don't need a spoon when eating miso soup you can just drink it by holding it like a cup "(味噌汁をい食べるときはスプーンを使わず、カップのように持って飲むことができます)

 

「けんちん汁」や「豚汁」のように具だくさんですと"drink"より"eat"のような気がしますが。この際、どちらでもいーとeatということで。lol

 

手で持つのが「飲む」なら、ごはんだって茶碗を手に持って食べる。英語では飲むでいいのかね。

だってごはんは汁ものじゃないでしょ。

じゃ、お汁粉はどうなんだ?あれは汁ものかい?

知るもんか

お汁粉は飲む、食う?【文士の汁粉】

やっとお汁粉にたどり着きました。

汁粉(しるこ)あるいはお汁粉(おしるこ)、関東では粒あんでも漉し餡でも汁粉ですが、関西では汁粉は漉し餡で、粒餡のばあいは「ぜんざい」と呼びわけるそうです。

関東では漉し餡は汁粉で、粒あんのものは田舎汁粉と呼ぶことがあるそうです。

関西では「亀山」と呼ばれる甘未があります。白玉や餅に汁気のない小豆餡をかけるまたは添えたものです。小豆の産地丹波亀山のからの名前だそうです。「亀山」という屋号の店があったというはなしもあります

wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%81%E7%B2%89)によりますと、江戸時代(1635年)の『料理物語』に「すすりだんご」という汁物が載っておりそれが汁粉の初出だそうです。
《もち米6とうるち米で作った団子を小豆の粉の汁で煮込み、塩味を付けたものにその上から白砂糖を天盛り》ということですが、当初は甘いものではなく、塩味が効いた酒肴でもあったようです。

 

出雲では「神在祭(かみありさい)」という神事が古くからあり、そこでふるまわれる「神在餅」(じんざいもち)が「ぜんざい」のルーツであるとされています。

神在餅(じんざいもち)
出雲 佐太神社 ➡http://sadajinjya.jp/?m=wp&WID=5614   
出雲ぜんざい学会 ➡http://www.1031-zenzai.com/media/147  

小島政二郎の汁粉

いま作家や評論家さんの食の本は数えきれないくらいありますが、むかしの文士たちにも口腹の作品がたくさんあります。小島政二郎 (1894年- 1994年)もその一人で、甘辛にかかわらずたべものに関しての随筆があります。菓子などの甘いものも好物でそちらの話題も少なくありません。

いま手元に河出文庫版『食いしん坊』があります。元は菓子舗「鶴屋八幡」のPR誌『あまカラ』に連載されていたものです。1954年に文藝春秋新社 から刊行、のちに文庫化され、河出書房で再文庫化されたものです。

 

その中に「一、東京のお菓子」と題する随筆があり、甘いものに関する感想が述べられています。

《甘いばかりが菓子の能ではない。いや、本当を言うと、甘くないのが菓子のネライでなければならない。》とあります。

そんな小島が大変感動したお汁粉があります。

 

この春、北鎌倉の魯山人の王国 へ、お花見に招かれた。その時の楽しさはまた別の 機会に書くが、私が甘党と知って、お汁粉をこしらえて出してくれた。
 お椀を口まで持って行くと、うれしいではないか、馥郁たる小豆の香おりがする。魯山人の美食の感覚に敬服した。私の生涯に、恥ずかしながらこんなうまいお汁粉を口にしたことは一度もない。私は 四杯お代りをし、五杯目を持ってきてくれた時、自分一人でこの喜びを独占するのがもッたいなくて鏑木清方夫人に割愛した。第一、お酒の燗と同じで、 その温度のよさ。

 

魯山人は毀誉褒貶のある人で、小島も『昔、星ガ丘茶寮の料理を食べて、うまいことはうまかったが、魯山人の美食もいかばかりのことやあらんと内心思っていた。』と同書の中で書いています。しかしこの日の北鎌倉の魯山人の料理やお汁粉は上のように絶賛しています。魯山人は1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されています。小島の星岡茶寮での食事から、北鎌倉のお汁粉まではおそらく20年近く経っているのでしょう。

北大路魯山人の評伝はいろいろ読みましたが、白崎秀雄・著『北大路魯山人 新版』と 山田 和著『知られざる魯山人』が印象に残っています。小島政二郎にも魯山人を描いた小説『北落師門』がありますがこちらは未読です。

久保田万太郎の汁粉 芥川龍之介のしるこ

久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年 - 1963年)は俳人としても知られる小説家、劇作家でしたが、ご本人は俳句を「余技」ととらえていたそうです。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

この時節になると必ず一度は思い起こされる久保田晩年の名句ですね。芥川龍之介は久保田万太郎の句は「東京の生んだ<嘆かひ>の句」と讃えています。芥川には『久保田万太郎氏』と題するエッセイがあり、

《小説家久保田万太郎君の俳人傘雨宗匠たるは天下の周知する所なり。》とあります。(傘雨は万太郎俳号)

同文の冒頭部分では久保田を含む3人の文壇知己をあげ《江戸っ児たる風采と江戸っ児たる気質》とあり、

《就中後天的にも江戸っ児の称を曠うせざるものを我久保田万太郎君と為す。少くとも「のて」の臭味を帯びず、「まち」の特色に富みたるものを我久保田万太郎君と為す。》と続けています。

(「就中」は「なかんずく」、「曠う」は「むなしゅう」と読みます。「のて」は山の手、「まち」は下町でしょう。)

 

芥川も認める東京の粋人であった久保田万太郎もやはり食や酒肴に関して一家言を持つ文人でした。浅草生まれで地元のお店にも足しげく通いました。『浅草の喰べもの』(1948年)という随筆では、次の12業種52店舗を屋号とともに掲げています。

料理屋(7店)、鳥屋(5店)、鰻屋(3店)、天麩羅屋(5店)、牛屋(6店)、鮨屋(5店)、蕎麦屋(5店)、汁粉屋(3店)、西洋料理屋(7店)、支那料理屋(1店)、一般貝のたぐひを喰はせるうち(2店)、てがるに一杯のませ、且、いふところのうまいものを喰はせるうち(3店)

すごい数でしょ。このうち8店は、

《芸妓の顔をみるため、乃至、芸妓とゝもに莫迦騒ぎをするために存在してゐるうちである。宴会でもないかぎり、われわれには一向用のないところである。》
宴会があれば赴くのしょうか。lol

横道にそれますがちょっと気になったので。『浅草の喰べもの』に出ている業種には鼈、鮟鱇、河豚、泥鰌屋がありませんね。鼈、鮟鱇、河豚は料理屋や他の店で供されるとしても、浅草には有名な泥鰌屋がありますね。➡(「どぜう」知ったかぶり )それに万太郎には泥鰌の句もあります。

どぜうやの大きな猪口や夏祭
            (句集「流寓抄以後」)

贔屓にしていたという『駒形どぜう』の前には万太郎句碑があります。

神輿まつまのどぜう汁すすりけり

『浅草の喰べもの』になぜ泥鰌が出てこないかというと、これを書いた時にはまだ泥鰌を食べたことがなかった、というはなしもありますが。

 

『浅草の喰べもの』には汁粉屋が3軒載っていました。《松村、秋茂登、梅園》の3店で、現存する店もあります。
《梅園よりも秋茂登のはうが花柳界をもち地元のものを多く客に持つてゐる。といふことは、秋茂登よりも梅園のはうが堅気の客が多いといふことになる。秋茂登の主人はわたしと同じ小学校出身である。》

 

『アンソロジー おやつ 』(2014年・パルコ 刊)Amazon

万太郎には『甘いものゝ話』という随筆があり、お汁粉についても書いています。汁粉は食べるもので、飲むものではないといっています。

 

この随筆は『アンソロジー おやつ 』(2014年・パルコ 刊)に転載されていて読むことができます。
(『アンソロジー おやつ 』は新旧の文筆家42人のおやつについての文章を集めたアンソロジーです。目次を見るだけでも読書好きの甘党さんには垂涎ものですよ。)

 

 

汁粉は「喰ふ」あるひは「喰べる」もので決して「飲む」ものではない。「飲む」といはるべきでない。「飲む」では第一、「味ふ」と心ふ感じがまるでそこに感じられた心ではないか。
ー略ー
すなはちそれらの人々は、汁粉の「汁」をまづ一気に流し込むのである。しかるノのち「餅」に箸をつけるのである。が、それらの人々にとっては「餅」がその主體ではない。「汁粉」をその流し込むことによって「汁粉」をもちゐることの目的の大半は果されるのである。

久保田万太郎 『甘いものゝ話』より

 

《震災以來の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶つてしまつた。》
上は芥川龍之介の『しるこ』という文の一節ですが、梅園、松村は万太郎が『浅草の喰べもの』で挙げた汁粉屋でもあります。

 

芥川は自身でも下戸と記しているように酒はほとんど飲まなかったようですが、文士の集まりなどでいろいろなお店に出向きました。『日記』には店の名前がたくさん出てきます。

随筆『しるこ』のなかで芥川は汁粉は東京が一番で(あった)、西洋人にも汁粉をすすめてみる価値があるとしています。ニューヨークで西洋人が集まって汁粉を啜りながらチャップリンのうわさ話に興じている姿や、パリのカフェで西洋の画家が啜っている姿、はたまたムッソリーニが汁粉を啜りながら天下の体制を考えている姿を想像して悦に入っています。

この随筆の冒頭には
《久保田万太郎君の「しるこ」のことを書かいてゐるのを見、僕も亦「しるこ」のことを書いて見たい欲望を感じた。》
とありますように、万太郎の『甘いものゝ話』に触発されて書いていることを示唆しています。

万太郎は汁粉は『「喰べる」もので決して「飲む」ものではない』としていましたが、龍之介は『啜る』とこの文の中で表現しています

このページの冒頭に繋がりました。lol

啜る、てっえのはどうでしょうか。

二人は東京府立第三中学校(現・都立両国高校)で万太郎が1級上でした。ご存知の通り芥川は昭和2年(35歳)の衝撃的な最期です。芥川への万太郎追悼句。

芥川龍之介仏大暑かな

万太郎は昭和38年74歳、梅原龍三郎邸の美食会で赤貝の握りずしを喉につまらせ誤嚥による窒息で亡くなっています。この美食会は寿司職人が立つ屋台が設えられていました。万太郎はマグロをはじめアワビやエビなど生ものが苦手で寿司はほとんど食べないひとだったそうですが、その場の行きがかりか赤貝を注文してしまったようです。

■浅草の喰べもの 久保田万太郎
初出:「甘味/お菓子随筆」1941(昭和16年)
出典:青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/001692/files/56000_52030.html
■久保田万太郎氏 芥川龍之介
出典:青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43369_26102.html
■しるこ芥川龍之介 
初出:「スヰート 第二卷第三號」明治製菓株式會社
1927(昭和2)年6月15日
出典:青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/24452_11251.html

酔中歌(あとがき)

■♪"Joy Spring"   (w)Jon Hendricks (m)Clifford Brown

↓THE MAX ROACH-CLIFFORD BROWN QUINTET: "JOY SPRING"↓

THE MAX ROACH-CLIFFORD BROWN QUINTET:

  
1956年に26歳で夭逝したクリフォード ブラウン(Clifford Brown)が、24歳のとき発表した曲。 春を謳ったブラウンらしい名曲。はつ春を謳ってるワケではないけど・・・

ジョン・ヘンドリックス(Jon Hendricks)の詞は後からつけられたもの。ジャッキー&ロイや、マンハッタン・トランスファー等のコーラスものも有名。

■鏡開きの餅は包丁などで切ってはなりませぬぞ。元来が武家社会の慣わしですから、「切る」は禁物。手や槌(ツチ)で叩いて開くのが正解。
 「二十日に鏡を祝うは、初顔祝うという詞の縁をとるなり」、

二十日(はつか)と初顔(はつかお)の語呂合わせ、はたまた刀の刃柄(はつか)に通じるところから、二十日に行なわれていたのです。ところが、三代将軍家光が四月二十日に亡くなり、この日を避けて十一日になったんだって。

■切ってはなりませぬ、と申しましても 干からびた餅は、ちょいと叩いたくらいでは割れそうにもありません。 水に浸しておくのです、数時間。それから蒸す、メンドーなら電子レンジ。そして手で千切ってから 汁粉にするという寸法です。

 どうぞ召し上がってください。
 あたしは結構です。これから晩酌ですから。

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