メルマガ初出

■第031号・2007/6/25

 

 

いらっしゃいませ

おやじ、生きておったか。心配したぞ

はぁ?

先日 たか橋の袂で、思いつめた顔をして小名木川(おなぎがわ)を覗きこんでいるおやじを見たんだが

あの界隈の江戸の昔の賑わいを、しのんでいたんですよ。
ところで、鉄棒×××× ってご存知ですか。

知らぬ。何を、つかみどころのない話をしているのだ

へぃ。そうなんです。泥鰌(ドジョウ)のおはなしなのです。

丸鍋

泥鰌(ドジョウ)の料理は 私にとっては、他店(よそ)へ食いに行く愉しみのほうが勝る料理の一つなのです。

 丸鍋(まるなべ)をはじめて食ったのは40年以上前の夏。以来好物となって毎年 夏になると高橋(たかばし)のたもと へ通っているのです。

 

 昭和33年に河出書房新社から出た奥野信太郎編『東京味覚地図』という本があります。「浅草」の章を作家・檀一雄が担当し次の一文が載っています。


東京味覚地図・浅草

「---浅草はうまい『ドゼウ屋』が二、三軒あることだけだって嬉しいではないか。『駒形』の『ドゼウ』もいい。 『飯田屋』の『ドゼウ』もいい。さ、どっちがうまいか。
        ー 中略 ー
 私は駒形と飯田屋と大体交互に行く。一週間に一度位は『ドゼウ』を食わないと胸がやける性分で、丸鍋の『ドゼウ』のヌラと骨がこもごもノドを通り抜けていくうま味は、何ともいえぬほどである。」


檀一雄の一週間に一度位というのには驚きますが、 私も、合羽橋の道具街へ出向いた帰りに、『駒形どぜう』や『飯田屋』で丸鍋を突っつく事もしばしば。 でも、わざわざ出向くとなると高ばしの『伊せ喜』ですね。

隅田川の支流の小名木川(おなぎがわ)に架かる橋が高橋(たかばし)です。この界隈は今も下町の風情が残っています。

葛飾北斎
「たかばしのふじ」

葛飾北斎に「たかばしのふじ」という錦絵があります。当時の高橋は中央が高く持ち上げられている構造となっています。橋の下を帆船が通過するから。その橋げたの下からはるかかなたに富士山を望む、例のごとく 誇張された遠近法の北斎の絵であります。

 

 

 

 

今の高橋(たかばし)
2020年ごろ撮影

高ばしの『『伊せ喜』』は明治20年創業ですから、北斎の時代にはまだありません。舟運が主要な運送手段であった江戸の昔、高橋(たかばし)は繁華な盛り場でありました。昭和の初期までは芝居小屋や映画館が立ち並んでいたそうな。

 先日は夏も終わりの9月6日・日曜晴れ。友人と昼日中から燗酒呑みながら、丸鍋をつっついてまいりました。玄関先に はためく白い大きなのれん に「どぜう」の3文字。鍋なんぞ敬遠したい夏でも泥鰌鍋は別格。

泥鰌鍋(どじょうなべ)は、夏の季語なのです。春の終わりから夏の盛りにかけて腹子をもつ、子持ち泥鰌がうまいんだな。

 

 「丸」はすっぽんの異名でもあり、すっぽん鍋の事も「丸鍋」といいます。でも、きょうの話は泥鰌の「丸鍋」。 丸というのは腸(はらわた)を抜いていない丸の泥鰌の事。もともと泥鰌鍋は丸でありました。

とりあえず丸鍋2人前ね
とりあえず
丸鍋2人前

 浅い鉄鍋が運ばれてくる。 泥を吐かせてから、酒で締め、下煮された泥鰌が 隙間なく並べられ 汁が張られている。

 これを卓上コンロにかけ、燗酒を傾けていると、煮立ってくる。傍らにある葱箱(ねぎばこ)と呼ばれる白木の箱の中には刻まれた葱が たっぷり。この葱を放り込む。素手で構わない、こんもりと。また、ここで一献。 ほどなくすると、ふつふつ ふつふつ 煮え立ってきますな。小鉢にとり粉山椒をふる。 急いでひと口。熱い。口内でとろけるよう。骨だって柔らかい。汁を吸い込んだ葱がこれまた旨い。どぎつい甘みはなく、後味もいい。     

 

 ことしの夏もおわりかな。

おねぇさん、丸のお変わり。お銚子もね。それから刻み葱もちょうだい

 

【あとから つけたし】
高橋の『伊せ喜』さんは2011年2月から工事中で休業していました。2年間の工事だとお知らせが掲げられていましたが、再開店はせず閉店なさったようです。

ぬき鍋、柳川鍋。 やっぱり、丸だ

 丸鍋のうまさを知る前は、もっぱら「ぬき鍋」を頼んでいましたっけ。昔々の、まだまだ若い夏でした。  ご一緒したあのひとは。。

 

 ぬき鍋は、背開きされた、やや大きめの泥鰌が生で皿に盛られてきます。頭、骨、腸(ハラワタ)が抜いてあるから「ぬき」。たぶん下煮はしていない。笹がきごぼうと焼豆腐も添えられています。

 

 丸鍋より深めの鉄鍋。割り下が煮立ち始めたら皿の泥鰌と笹掻きごぼう、焼き豆腐をいれて煮る。これを溶いた生卵にからめて食べるという寸法。 牛蒡と泥鰌の卓越なる取り合わせ。濃い目の汁に溶き卵。これはこれで棄てがたい、

のですが。   でも、どじょうはヤッパリ丸だ

 

 『伊せ喜』(*閉店)にも柳川鍋はあります。泥鰌といえば「柳川鍋」というくらいお馴染みではありましょう。私は丸鍋が好物ですから ここ何年も注文した事がありませんが。

 

 アレはいつの ことでしたっけ。ご一緒したのは。。。
アナタが「丸鍋はちょと、、、、、」とおしゃっるから、柳川を頼みました。ひとつの鍋にしたかったから。。。。。

 

 あっ、すみません。  お話を戻します。 

柳川鍋の由来は諸説あります。江戸は日本橋柳川町の柳川屋という店で考案された料理だから。あるいは、九州柳川の窯で焼いた土鍋を使ったから。という辺りが有名。泥鰌を並べた姿が柳の葉に似ているからという説もあります。

 

わたくしの説は、笹掻き牛蒡が 柳の葉に似ているから、というものです。ずっとそう思い続けてきましたが、世間さまを混乱させてはまずいので、引っ込めましょう。

 

いずれにせよ、笹がき牛蒡 と背開きした泥鰌を煮て卵でとじる のが柳川鍋。客席ではなく調理場で作ってくる。これの一番難しい点は、卵をかけ回してからテーブルに届くまでの時間でしょう。モタモタしていては とじた玉子が硬くなってしまいます。ぐつぐつ煮え立っているところを、運ばねばなりません。

 

 柳川鍋も充分旨いのですが、丸鍋を知ってしまうと醍醐味に欠けるね。醍醐味(だいごみ)って何だ。

醍醐味は究極の美味

 「醍醐味」を広辞苑(第五版)で引いてみましょう。
1.仏醍醐のような最上の教え。天台宗で五時教の第五法華涅槃時をいう。
2.醍醐のような味、即ち美味を褒めている語。
3.深い味わい。本当の面白さ。

 元来、「醍醐」という言葉は涅槃経(ねはんきょう)からきた言葉で、これ以上のおいしさはないという意味ですと。 涅槃経には「乳は酪となり、酪は生酥となり、生酥は熟酥となり、熟酥は醍醐となる、醍醐最上なり」とあるそうです。

 3~6世紀の中国。乳加工品の工程は乳腐(にゅうふ)→(らく)→(そ)→醍醐(だいご)となっていたそうな。 このうち(らく)は、現在のバターに近いものといわれています。となれば、醍醐(だいご)はチーズに近いものなのかもしれないね。 つまり、乳製品を生成する過程で、究極に出来上がる美味のことというわけ、でしょ。

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「どぜう」知ったかぶり

泥鰌丸鍋大好きアラン君・サンフランシスコのプログラマ、「伊せ喜」にて

さて、再び ドジョウの話。『駒形どぜう(越後屋)』、『飯田屋』、『伊せ喜』とも暖簾(のれん)には「どぜう」と書いてあります。
 現代の仮名遣いでは「どじょう」です。旧かな遣い(歴史的仮名遣いといわなければいけないのかな)では「どぢやう」でしょ。
3店の「どぜう」暖簾
 どうして「どぜう」と書くのか。それはね、
どぢやうは4文字で縁起が悪いから、どぜうと3文字にしている」のだそうです。
「文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、、」「どぜう」とした、と「駒形どぜう」のホームページに載っています。
http://www.dozeu.com/dozeu_fl/rekishi/rekishi.html

 

 でも、私は既にこのことを知っていたね。文化3年にはまだ生まれてはいなかったけれど。 若いころから吉行淳之介(1924年 - 1994年)の読者で、その殆どの著作を持っています。また昔話ですが。 
やっとでてきた、吉行淳之介「贋食物誌」
 昭和49年に新潮社から吉行淳之介・著「贋食物誌(にせしょくもつし)」が刊行されています。夕刊紙に山藤章二の挿絵で連載されていたエッセイが本となったのです。 この本の、第35話「泥鰌(どじょう)」に、「どぜう」のかな遣い の因縁話が載っていたのでした。 それだけの事。 前から知っていたよ、という自慢話をしたいがために、今日は半日を費やしてしまった。朝からこの本を探し回っていました。押入れやら、本箱やら。

 

 吉行淳之介と同じく第3の新人といわれた作家仲間の安岡章太郎(1920年-)のエッセイに泥鰌の丸鍋を食う話があるのですが、その本は見つかりません。歳を重ねた氏は歯が悪くて、泥鰌を丸呑みしてしまう話であったと思いますが。

光沢と粘り「鉄棒××××」北斎、再び

 今日はどじょう屋の宣伝のようになってしまいましたので、このあたりで、居酒屋おやじ (いや)らしいお話を一発。

 冒頭でご紹介した檀一雄の文に「『ドゼウ』のヌラ 」とありました。 「ぬら」は近頃はあまり使われなくなった擬態語ですね。「ぬるぬる」とか「ぬめぬめ」は聞きますが。 「ぬらぬら」という表現は古くからあったようです。漢字で書けば「滑々(ぬらぬら)」。「滑らかですべるさま。粘液などに触れたような感じ。」と辞書には載っています。

 

 惟高妙安(1480ー1567)の『玉塵抄』(1598・室町時代)に汁のなめらかにぬらぬらとするとあるのが「ぬらぬら」の初出とされています。

 「ぬるぬる」は式亭三馬(1776年-1822)の滑稽本『浮世風呂』(文化六年(1809)~文化十年(1813)刊)で、泥鰌を「ぬるぬる」と表現しているそうです。
 ぬらぬら も ぬるぬる も似たようなものでしょうが、ぬらぬら には ぬるぬる では表現しきれない 光沢や粘りがあるように思えます。

 

 それから、あのね。 ここで、またもや葛飾北斎が登場します。ふふ。

浮世絵師・葛飾北斎は春画でも有名ですが艶本も書いているのです。1792年・艶本『間女畑(まめばたけ)』を出したときの筆名は「鉄棒ぬらぬら」でした。幼名は「鉄蔵」だったのだけれど。「紫色雁高」(ししきがんこうorししょくがんこう)という号で艶本『会本松の内』(1794年)の画も描いています。

「紫色雁高」の「鉄棒ぬらぬら」とくりゃ、そりゃもう、北斎春画のように、すんごいんだろな。
 話があらぬほうへ行ってしまいそうなので、このあたりで軌道修正。

泥鰌の唄

魚河岸で。
まだ築地にあったころ

泥鰌がキュキュと鳴くのをご存知出でしょうか。アレは呼吸の音だと。あるいは屁だという人もいます。 泥鰌の唄だという情緒だってあります。

 

 調べてみますとこういうこと。
 泥鰌は鰓(エラ)呼吸と腸呼吸とを行う。腸呼吸とは、水面から口を出して空気を吸い込み、腸に通してガス交換して二酸化炭素を肛門から排出する呼吸法なのです。

 体が濡れていれば水中にかぎらず空気中でも生きていられるのは、この腸呼吸ゆえだそうです。泥鰌が音を出すのは、空気を吸い込む時というのが正解ですが、肛門からガスを出すという事も事実のようです。

 

 直木賞作家の長部日出雄の短編集「津軽世去れ節」(1972年津軽書房刊)の中に「猫と泥鰌」という小説があります。
 蛇足ですけれど、この初版本の腰巻(帯)には前出・吉行淳之介が推薦文をよせているのです。


 

長部日出雄「津軽世去れ節」/腰巻には吉行淳之介の推薦文
 「猫と泥鰌」の主人公・桑介は農家の末っ子で町に勤める若者。泥鰌の養殖の成功が夢である。貯金をはたいて設備を整えた養殖池の周りには、高さ30cmの壁をめぐらし、泥鰌が逃げるのを防いでいる。
 あるとき、水量の調節を誤り、水が干上がってしまい、たくさんの泥鰌の影も形もない。桑介は、呆然と養殖池を見ていた。 突然、桑介の顔に大粒の雨があたり、それはたちまち土砂降りの雨となった。

するとーーーーー

 

《広い泥地のどこからともなく、無数の泥鰌が湧き出るように、一斉に姿を現してきた。雨の中に躍り上がって跳ね回るのに、顔を近づけてみると、泥鰌は小さく、キ、キ、キ、という鳴き声を挙げている。
桑介の耳には新鮮な水を待ち焦がれていた泥鰌の歓喜の声のように聞こえた。
あるいは、それは泥鰌の歌であったのかもしれない・・・・・》
(猫と泥鰌)より

酔中歌(あとがき)

♪PLAYS DEBUSSY Jacques Loussier Trio
(♪プレイ・ドビュッシー  / ジャック・ルーシェ・トリオ)

↓JACQUES LOUSSIER plays Claude Debussy↓

 

▼ドビュッシーの管弦楽曲「海」は北斎の冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」に触発されて、作曲したという話だ。1905年デュラン社から刊行された楽譜の表紙には北斎のこの浮世絵が描かれていた。

クラシックをジャズとして演奏するジャックルーシェの一連のアルバムは「プレイ・バッハ」から始まった。その後ベートーベン、ヴィヴァルディ、サティも演る。ドビュッシーもある。

ドビュッシー「海」,ジャックルーシェ「プレイ・ドビュッシーのアルバムジャケット

▼吉行淳之介とドビュッシー(クロード・アシル・ドビュッシーClaude Achille Debussy, 1862 - 1918年)にかかわる話をしたらきりがない。『子供の領分』というドビュッシーの曲名を冠した作品もある。

吉行淳之介文学館(掛川)201?年ごろ撮
▼私の頭の中では吉行とドビュッシーとそしてパウル・クレーが言葉と音楽と画で会話している。

▼吉行淳之介「砂の上の植物群」はクレー(パウル・クレーPaul Klee, 1879 - 1940)の水彩画から借りた題である。 吉行には『夢の車輪 パウル・クレーと十二の幻想』 という作品集もある。

▼クレーもまた東洋美術からの影響を受けた画家であったことはあまり知られていない。横須賀美術館の「パウル・クレー 東洋への夢」展北斎漫画や浮世絵に影響されたと思われる作画が数点ある。折りしも「パウル・クレー 東洋への夢」展が横須賀美術館で開かれており先日(2009年9月5日?10月18日)行ってきた。 
http://www.yokosuka-moa.jp/
山本 理顕 設計の横須賀美術館を隈なく見ることも目的の一つだった。

▼高見順(1907年ー1965年)の『如何なる星の下に』では、作家の「私」は『飯田屋』で泥鰌ではなく、なまず鍋を食べる場面があったね。

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