■第039号■ オクラと小泉八雲《再び》

いらっしゃいませ。

オクラの和え物です。召し上がりますか。

『このネバネバが からだにいいんだってね。』

ところでお客さん、小泉八雲はオクラを

食べたのでしょうかねえ。

『なんでえ、薮から棒に。なぜ小泉八雲がいきなり

出てくるんだ。。夏だから怪談でもはじめようてとこか。

長い話はやめとくれよ。』


■きょうの品書き(目次)■

オクラ

 

1.【オクラ 】

野菜としてのオクラが米国から日本に入ってきたのは、

19世紀後半ということですから、さほど古い事ではありません。

明治6年(1873年)発行の「西洋蔬菜栽培法(開拓使蔵版)」

という西洋野菜の栽培法の本に「黄蜀葵(アメリカ ネリ)」

の名での記載が初出とされています。

「ネリ」とは中国原産の植物、「トロロアオイ」の事で

同じく「黄蜀葵」と書きます。こちらは、オクラの渡来以前から

ありました。黄蜀葵(おうしょっき)とも読みます。

アオイやハイビスカスの仲間で、俳諧では夏の季語です。





根茎や果実が粘液質ですから、トロロの名があります。

観賞用の花として、また薬草としてや和紙漉きの粘着材としても
使われていました。

     

オクラの原産地は現在のエチオピア辺りのアフリカ東北部で、

13世紀にはエジプトで栽培されていたという記録が
あるそうです。

その後各地に伝播し、南米へは17世紀ごろ、それから北米へと

奴隷貿易とともに伝わって行きました。

日本で栽培し始めたころは「陸蓮根(オカレンコン)」と呼ばれ

ていました。切り口の形状がレンコンに似ているところからでし

ょう。

「オクラ」の名は、英名「okra」からです。

その語源はアフリカ、ガーナのトウィ語(Twi)に遡ります。

・参考

http://plantanswers.tamu.edu/publications/vegetabletravelers/okra.html

 

2. 【クレオールとケイジャン 】

  

オクラは英語からの名ですが、アメリカ南部では

ガンボ(gumbo)という名でも有名です。

ご存知でしょう、「ジャンバライヤ(jambalaya)」という歌。

「♪グッバイジョ〜」で はじまるアレ。カーペンターズよりも

元歌のハンク・ウィリアムスのほうが私のような年寄りには

馴染みがありますが。

あの歌のコーラスのところに「ガンボ(gumbo)」がでてきます。

それはオクラの入ったシチューやスープの事でしょうが、

オクラそのものもガンボです。





曲名の「ジャンバラヤ」も料理名。ニューオリンズの名物

ケイジャン料理」や「クレオール料理」の代表料理で、

スペインのパエリヤ(paella)に似た米入りの炊き込み料理です。

今日では「ケイジャン料理」と「クレオール料理」の違いは

殆どないようですが、その成り立ちは異なります。




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■ケイジャン料理

ケイジャン(Cajun)はアケイディアン(Acadian)という語からの

転訛だと言われています。

カナダの大西洋側にノバ・スコシア(Nova Scotia)という州が

あります。「新しいスコットランド」という意味。

この地名は1710年にイギリス領になった時から。

ノバスコシア州の写真その前は アカディア(Acadia)と呼ばれていました。

17世紀初頭、フランス人の入植が始まり、彼らはこの地を

アカディア(Acadia)と名付け、自らをアケィディアン(Acadian)

と名乗りました。

そのご、世界各地での植民地をめぐる争いに巻き込まれ、

お話しましたようにイギリス領となったのです。

1740年のオーストリア継承戦争を期にフランスは

アカディア奪回を試みますが、アカディア人たちはイギリスに

忠誠の道を選びます。

ところが、ノバ・スコシア知事のチャールズ・ローレンスは

アカディアン追放の命令を下します。

時に今から240年以上前、1755年7月28日の事であります。

住む場所を失ったアカディア人は約6000人。いわば流刑流浪の民。

世界の各地へ、西インド諸島、フランス領ギアナ、

フォークランド諸島までにも流されていきます。

各地へ渡った彼らの悲惨な暮らしや最期の記録が残っています。

祖国フランスも救ってはくれません。

彼らの一部、4家族20人は

1764年に当時フランス領であったルイジアナ南部の
ミシシッピ・デルタ地帯
へ辿り着きました。

翌年

1765年にはさらに200人が別ルートで到着。

1768年には入植者数1000人以上となっていました。

1785年、フランスに戻っていたアカディア人約1600人が

7隻の船でルイジアナへ移住してまいります。

移民のための費用はスペインが負担したのです。

スペインが旅費を出した目的は、新大陸にカトリック教徒を

増やしたいから、というのは表向き。

ミシシッピ川を挟んで東はイギリス領、西側のルイジアナは

1763年にフランス領からスペイン領になっています。

緩衝地帯にアカディア人を住まわせ、謂わば「盾」としたのです。

この人たちがこの地に定住し

アケイディアン(Acadian)からケイジャン(Cajun)へと

その呼び名は移ってまいります。

ケイジャンはもともとフランスはノルマンディーや

ブルターニュの地方出身者たちです。彼らが移り住んだ、

ここルイジアナ南西部の沼沢地では、新鮮な魚介類や

自然の食材が豊かにありました。

これら土着の材料を、フランスの地方料理に取り入れ、

やがて香辛料やハーブなどを加えていき、

次第に刺激の強い味となっていきます。

気候風土と日々の労働から彼らの嗜好は強烈な辛さの料理を

求めるようになったのかもしれません。

今日、ケイジャン人口はルイジアナ州で43万人、

米国全土で60万人になるそうです。

(1990年の国政調査による.Wikipediaより。古いね

・参考

http://www.acadian-cajun.com/index.htm  

参考サイト

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■クレオール料理の変遷

クレオール(Creole)という語は多義にわたっていますが、

根本は人間社会の混交における現象の概念でありましょう。

(何のこっちゃ。)

この説明では(私が)わかりませんから、

1.新大陸や他の植民地圏で生まれた黒人または白人。

 さらに、その混血。

2.かつて植民地において支配国の市民権を取得した植民地の人た

 ちとその子孫。  植民地で生まれ育った人。

3.クレオール言語の事。

4.ルイジアナ州ニューオリンズの伝統料理。クレオール料理。

とまとめてみました。

今日のところはこれで勘弁してやってください。。。

ダメですか。ではちょっと付け加えましょう。

もともとは植民地生まれの白人の事でありました。

たとえばフランス人が海外に植民地をつくる。

やがては本国フランスを知らない子供が生まれることになります。

その子供たちををクレオールと呼んだのです。

その後、言語や文化などもクレオールという概念がでてきます。

植民地支配や貿易などのためにやってきた人たちが、

現地人と疎通を図るために自然に両方の言葉がごちゃ混ぜに

なってきますね。それがひとつの言語として

成り立ち(ピジン言語)、根付いてその地の子孫には母語となり

ます。それがクレオール言語です。世界中に例があります。

簡単に言えば、

人種、言語、文化にわたっての

混血、混合、混種がクレオールである
と言えましょう。

(最初から簡単に言えって。。。)

それでは、ニューオリンズの「クレオール」のお話です。

1718年 ミシシッピ川下流にフランス人入植者は集落を形成し

その地を

ヌーヴェル・オルレアンNouvelle Oreans(ニューオリンズ)

名付けます。新しいオルレアンの意。

オルレアンはフランス、ロアール川沿いにあって、パリとならぶ

王家の町で、聖少女ジャンヌ・ダルクの出身地でもあります。

植民地での料理はフランスの伝統的なソースを主体とした、

手間をかけたものです。

その料理人はアフリカからの奴隷たちでした。

彼らは祖国の手法や独自の知識も次第に加えていきます。

1762年、ニューオリンズを含むミシシッピ川以西の

ルイジアナ領は秘密裏にフランスからスペインへと売渡たされます。

(1762年のフォンテヌブロー条約)

http://bit.ly/qyBk7E

スペイン人は香辛料ふんだんで風味の強い自国の料理に

フランスのソースを取り入れ、アメリカの食材を使って

調理しました。

また彼らは、例えばソーセージと海老など 肉類と魚介類を

ひとつの料理で使いました。

それから、米の上にさらに別種の食物を盛り合わせます。

豆類やオクラなど。

これらのことがその後のクレオール料理の基となっています。

1800年ナポレオン1世はルイジアナをスペインから取戻しますが

1803年にはアメリカ合衆国に売却します。

1812年ルイジアナ州が成立。

1861〜1865年の南北戦争の後、イタリア人がニューオリンズに

入ってきますと、トマトのソースとパスタが加わる
ことになりま

す。

そしてさらに、ドイツから、アイルランドから移民がやってまい

りす。

このようにクレオール料理は時とともに

ごちゃ混ぜに、、、

モトイ、進化し続けてまいりました。

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■お話してまいりましたように、

ケイジャン料理とクレオール料理の成り立ちは異なります

旅行案内書などには

「ケイジャン料理は、開拓移民労働者の料理ですから庶民的で、

クレオール料理は植民地時代の支配階級にその流れを

汲みますから上品で洗練されている。」などとかかれています。

実際は、おなじルイジアナ料理ということでさほどの違いは

今日では見られないようです。

でも中には微妙な違いが残っている料理もあるのです。

例えばジャンバライヤ。

ケイジャンの代表的なジャンバライヤは茶色いソース仕立て、

クレオールのそれはスペインやイタリアの影響を強く受けて

赤いトマトソースが主流です。

とまれ

先住民族のチョクト族それからフランス、アフリカ、スペイン、

アングロサクソン、いろいろな人々が対立し、あるいは融和し

200年以上にわたりそれぞれの文化が交じり合って

独自の料理として出来上がったのが ルイジアナ料理

いうことでありましょう。

 

3.【小泉八雲とオクラ 】

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はニューオリンズについて

記しています。

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「初めてこの町へやって来て悦びを感じない人は少ないし、

この町を去る時に名残惜しさを感じない人は少ない。

この町の魔力は神秘的で、甘美で、誰もこれを逃れることは

出来ない」

(The Glamour of New Orleans (ニューオーリンズの魔力)から)

http://bit.ly/mSuJeH

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パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn・1850−1904)
はギリシアレフカダ島生まれのアイルランド人。
父親は英国軍の軍医であるアイルランド人、
母はキティラ島出身のギリシャ人。
ハーンはあちこち新天地を求め放浪をつづける人生でありました。

1890年(明治23年)に来日、1896年に帰化し「小泉八雲」と
名乗ります。
1904年満54歳で没するまで日本での活躍はご存じのとおりです。

1877年からの10年間をルイジアナ州ニューオーリンズ

で過ごし、様々な文化が融合する「クレオール」に強く惹かれま

す。

南北戦争(1861年-1865年)の後、クレオール文化が抑圧され

衰退する事を憂いたハーンはニューオリンズで、あるいはフラン

ス領西インド諸島でクレオール
にかかわる民謡、民話や伝説を

意欲的に採集しております。

そのハーンがニューオリンズ滞在中に集めたクレオール料理の

レシピ集があります。

ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本

”Lafcadio Hearn's Creole Cook Book”

「ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本」という本です。

翻訳本をアマゾンで探しましたが、

古本しかないようですから、絶版なのでしょう。

(著:ラフカディオ・ハーン 訳:鈴木あかね 出版社:(株) 阪急コミュニケーションズ 価格:1,785 円・※なんと古書は1万円以上でっせ。)

ハーンはニューオリンズの街では料理店を開いています。居酒屋おやじではなく、居酒屋あんちゃんですな。1879年2月ですから30歳直前。

彼の自慢は

「ニューオリンズで一番安い店です。料理は何でも一皿5セント。市価など糞くらえです。」

ですから、1ヶ月でつぶれてしまいますが。商売の相棒に金を持ち逃げされた、という はなしもあります。

私んところは37年続いています。長けりゃいいってものじゃございませんが。。。

ところで

ハーンは日本に来てから、奥さんの小泉セツに

ジャンバラヤやガンボなどの

クレオール料理を教えたのだろうか。

それにはオクラが入っていたのだろうか

てなワケで、小泉八雲はオクラを日本で食べたのだろうか、

という冒頭の私の疑問につながるのです。

ながながとスミマセン。

参考図書:

工藤美代子 著『ラフカディオ・ハーン 漂白の魂』(NHK出版)

 

4.【ネバネバ 】

オクラなどのネバネバ成分は「ムチン」と呼ばれています。

これは糖とたんぱく質が結合した物質(糖タンパク質)で、

たんぱく質の吸収を促し、コレステロールの吸収を抑える効果が

あるそうです。

ネバネバした食べ物は健康のために良いといわれています、

その通りでありましょう。

日本では古くからネバネバの食文化が根付いているように

思います。

気候も作物も調理も食事様式もネバネバに適っているのでしょう。

例えば米。多くの国で米は食べられていますが、

粘りのあるジャポニカ米を好む国はむしろ少数派でしょう。

米の調理方法も「煮る」のではなく粘りを大事とする

「炊飯」です

炊飯のとき沸騰すると、蓋のまわりから粘りけのある汁が

出てきます。これを「おねば」といいますが、

おねばを噴きこぼさずに炊くことが大切であり、おいしいご飯を

炊く秘訣でもあります。

食事の方法も、器を持ち上げ箸でいただきます。皿をテーブルに置き、

ナイフやフォークでネバネバ食を食べるのは

合わないように思いますね。

■ネバネバの語源は「粘し(ねばし)」、

「粘粘し(ねばねばし)」だろうとは想像つきますが、

古くから「根張る」という言葉があり

それからの派生語であるそうな。

鎌倉時代、1275年成立の「名語記(みょうごき)」という辞典に

はその記述が載っているそうです。

 

5.【酔中歌(あとがき)】

お馴染み”♪ジャンバラヤ”【Jambalaya (On the Bayou)】



 1953年1月1日29歳の若さで急死した ハンクウィリアムスが

 1952年に発表したカントリーソング。

 

 故郷の人々に新妻をお披露目する男の喜びを唄った

 明るい歌です。

 ケイジャンソングが基になっておりケイジャンの風物と

 ケイジャン英語が随所にちりばめられています。

 副題のオン ザ バイユー(On the Bayou)のBayouは

 沼地のようなところですが、ここでは

 ミシシッピー川下流のデルタ地帯に広がる入り江や

 沼地地帯のことでしょう。

・Bayou イメージ

 
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&ie=UTF-8&c2coff=1&q=bayou

こちらは江利チエミのジャンバライヤ

英語も日本語も歯切れのいい歌声です。

 えっ、江利チエミ知らないの〜?

では、カーペンターズも。
http://bit.ly/3Fs3K4

■参考図書

ラフカディオハーンは
工藤美代子著

19歳でヨーロッパを離れ、以後新天地を求め各地を放浪し続けたました。

来日は1890年。翌1891年松江の 士族 小泉湊の娘・小泉節子(セツ)と結婚し、

1896年には帰化して「小泉八雲」と名乗ります。1904年、日本で54年の生涯を閉じることとなります。

ニューオリンズには1877年から約10年間滞在していたのですが、

ハーンがこの地で、新聞記者から作家へと転身していくさまが

工藤美代子 著『ラフカディオ・ハーン 漂白の魂』(NHK出版)

に書かれております。ハーンの人生の転機、文筆の道を歩む以外ないと認識したのはここニューオリンズだったと、著者はいいます。そしてさらなる漂白がここから始まるのです。
■同書より引用

クレオール人という言葉についてハーンは当時のニュー・オリンズ在住の人々が、
「初代ラテン系入植者の子孫ーつまり、ルイジアナ州を建設統治したフランス人、およびスペイン人の子孫をさす」
と定義していると『古風なニュー・オリンズとその住民』の中では書いています.

したがって、必ずしも入植者と黒人の間に生まれた子供たちとは限りません。しかし、一般的にはラテン系の入植者と有色人種の間にできた子孫を、ラテン系の血を引いていない、他のアメリカの有色人種と区別するために用いられるようになったのです。

■ルイジアナ大学料理研究所では「ラフカディオ・ハーン賞」と

 いう賞があり優秀な創作料理にこれを贈っているそうです。

 

■ニューオリンズは、jazz発祥の地とされています。

当メルマガの編集兼発行人もjazz好きでありまして、

神田のjazz spot “Step!”には開業当初からお世話になっています。

http://www.tate-mono.com/cat0003/1000000122.html#7

この4月にマスターが急逝されました。
ジャズに関する造詣が深く、しかしそれをひけらかすことのない人でした。
わたしより若いのに残念でなりません。ご冥福をお祈ります。

店はご子息が継いでいらっしゃいます。

■オクラは夏の話題でした。もう 9月なのに。しかも焼き直し。
すみません。

また次号でお会いしましょう。次号は、、、なるべく早いうちに、、、

♪Goodbye Joe, he gotta go, ,,,

v

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